小さい頃は、神様がいて 第4話 感想文(ネタバレあります)― 喪失と再生が交錯する「おかえり」と「ごめんね」

本ページはプロモーションが含まれています


見えない距離と、見ないふりの重さ

第4話を観て、最も胸に残ったのは、“見せていないもの”を抱えながら日常を演じる人たちの姿でした。
仲間由紀恵 演じるあんと 北村有起哉 演じる渉の関係性が、冷え切った夫婦という枠を超えて「離婚を目前にしたふたりの静かな対立」として描かれ、リアルな切なさを感じました。
同時に、草刈正雄 演じる慎一・阿川佐和子 演じるさとこ夫妻による、娘とその夫を事故で失った一念から孫2人を引き取る決意の物語が、深い「再生」の余白を残していました。

良かったこと

家族の形が“変化”としてリアル

孫を突然迎えることになった慎一夫妻の焦り、あん・渉のすれ違い。どちらも“こうあるべき”という形が崩れたときに生まれる痛みを丁寧に映していました。
特にあんが「私は、わかってほしかっただけ」というセリフに、この回のテーマが凝縮されていたと思います。

演出が見せる“明るいけれど重い”日常

明るいインテリア、風船、子どもたちの笑顔。けれど背景には「死別」「離婚」「知られざる気持ち」が潜んでいて、映像の明るさが逆に胸を締めつけました。
「ポップに見せること」が、このドラマの静かな緊張感を生んでいます。

気になった・もう少し描いてほしかったこと

離婚問題の描写がやや飛躍している部分

あんが離婚を打ち出してから、渉とのズレが急速に描かれていて、視聴者としてはもう少しその過程や2人の“ここまで来た理由”の掘り下げが欲しかったと感じました。
夫婦関係がこうも静かに破綻していくのか、という驚きとともに、「もう少し前段階を見たかったな」という思いも。

孫育ての展開が重く、日常とのバランスが難しい

娘夫婦を失って孫を預かるという設定自体が重厚で、70代での孫育てというテーマは深い。ですが、日常の“マンションの住人コミュニティ”という軽めのトーンとも交じるため、物語トーンの振れ幅が気になる場面もありました。
“普通の生活”として描かれながらも、背後には「報い」「再生」という大きなテーマがあって、そのギャップに少し疲れを感じることも。

感想まとめ

この第4話では、別れと出会い、失うことと受け入れること、そのすべてが同じ時間の中で静かに交錯していました。
あんは渉に対して「理解してほしい」という願いを抱え、渉は渉で「変わらなきゃいけないのか?」という迷いを抱えています。
慎一夫妻は「報いかな」という言葉を口にしながら、再び“育てる”という日常に向き合い直そうとしていました。

このドラマが描いているのは、派手な事件でも極端なドラマチックな展開でもなく、むしろ「普通の家族」が迎える“分かり合えない瞬間”や“平行線の距離”です。
その中で、喪失の痛みを抱えてなお“笑おうとする”人たちの姿が、とても切なく、また希望のようにも見えました。
明るさの裏にある静かな祈り。神様は巨大な奇跡を起こすのではなく、人の隣でそっと手を差し伸べるような存在だったのかもしれません。

今後への期待と考察

次回以降、とても気になるのは:
– 孫・凛や真のこれから。彼らがどれだけ“子どもでいられる”時間を与えられるのか。
– あんと渉の離婚“実行”までの日々。果たしてこの夫婦はどう動くのか。
– 慎一・さとこ夫妻の孫育てがマンション住人コミュニティにどんな影響を与えるか。

このドラマはすでに「家族のかたち」の外側を映し始めています。
“離婚”“死別”“再出発”というテーマを通して、「家族って何だろう」「信じることって何だろう」を考えさせてくれます。
第4話は、その問いをさらに深めた回だったと感じます。
(あいちゃん)

「小さい頃は、神様がいて」の関連グッズを楽天ブックスで探す
「小さい頃は、神様がいて」の関連グッズをAmazonで探す