地獄は善意で出来ている 第3話 感想文(ネタバレあります)― “善意”の仮面が剥がれたとき、そこに残るのは何か?

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閉ざされた「施設」という異空間で、何を信じる?

第3話を観てまず感じたのは、“更生プログラム”という名のもとに集められた人々が、表面上は手を取り合うように見えても、その裏で確実に何かがおかしいという緊張感です。
主人公・樹(草川拓弥)は、壁に書かれた「逃げろ」の文字を見て、施設に漂う得体の知れない“何か”をますます強く感じ始めます。こんな“善意の場”でなぜ「逃げろ」と書かれているのか―そのギャップが冒頭から胸をざわつかせました。

良かったこと

信頼と疑念の綱引きが深まった

ドッジボール大会という「協調性を試すイベント」が設定されていることで、参加者同士の距離が一見縮まったように見えながら、実は一人だけ違う動きを見せる――という構図が見事でした。
樹が一瞬アウトになる場面、そのあと「ん?」と感じさせるセリフを口にしたことで、「ただのレクリエーションではない」という空気が立ち上がります。
この“安心の裏側”を巧みに描いた演出が、この回のハイライトだったと思います。

演出と雰囲気づくりの巧妙さ

施設が金網のフェンスで囲まれているという視覚的な閉塞感、夜に物置小屋に閉じ込められた理子(渡邉美穂)のあせり、そして外で上がる火の手――これらの要素が「逃げられない」「何かが起きる」という恐怖をじわじわと高めていました。
また、施設内で「仲間意識」がテーマにされながらも、その裏で“評価”や“立場”が絡んでくる構図も非常に興味深かったです。

気になった・もう少し掘ってほしかったこと

“評価”というプレッシャーの描き方がやや薄め

理子が「自分の評価が下がることが何より怖い」という動機で焦る展開は理解できますが、なぜそれが彼女にとってそこまで大きな恐怖なのか、もう少し過去の描写や彼女のバックグラウンドがあれば、より感情移入できたかなと思いました。
また、ドッジボールというイベントの設定がやや寓意的すぎるため、物語としての整合性を少し感じづらくなる部分もありました。

“逃げろ”という文字のインパクトの反動が弱め

冒頭の「逃げろ」の文字は非常にインパクトがありましたが、その後の展開の中でその文字が示す具体的な意味や伏線が、もう少し明確にされていたら“逃げなければならない理由”がより恐ろしく響いたと思います。
恐怖の入口はあったものの、“なぜ逃げなければならないか”という問いの答えが、まだ視聴者に届き切っていない印象も残りました。

感想まとめ

この第3話では、“集団”という枠組みの中での孤立と、信じていた善意が裏返る瞬間が描かれていました。
樹は施設に入って以降、「みんなと同じように振る舞えば大丈夫」という安全神話を一瞬信じるものの、ドッジボールの場面でその幻想が揺らぎます。
理子のように「評価」を恐れる者、琥太郎(高野洸)のように“良い子でいよう”とする者、そしてカトウ(細田善彦)のように“操作する側”…それぞれの思惑が交錯し、「善意」に見えるものが実は“構造”であったという冷たい真実が顔を出します。

舞台は“更生プログラム”という名の施設。つまり「救われるための場」が、逆に“不安”を煽る場にもなっている。
その表裏一体の構図が、この作品の怖さであり魅力です。
第3話は、その怖さを視聴者にじわりと突きつける回だったと思います。

今後への期待と考察

次回以降、特に私が注目しているのは:
– カトウの“心理操作”の本当の意図。なぜ彼は球技大会を企画し、樹を追い詰めたのか。
– 理子が物置小屋から抜け出せなかった理由。鍵を頼んだ夢愛(井頭愛海)は本当に行動したのか?その後の心理的変化。
– 「逃げろ」の文字が示していた“出口なき施設”の構図。金網フェンスが暗示するものとは。
– 樹自身の過去と、このプログラムに参加した動機。彼が“更生”を目指す真意とは何か。

このドラマは「地獄」という言葉をタイトルに掲げながらも、救いや善意という側面を逆説的に描いています。
善意でできているはずの場所で生まれる隔絶、操作、疑念――。
第3話は、その隔絶が一気に可視化された、ターニングポイントとも言える回でした。
次回も目が離せません。
(あいちゃん)