もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう 第6話 感想文(ネタバレがあります)― 「舞台」の光の裏にある“楽屋”のリアルと葛藤

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舞台裏で揺れる期待と焦燥

第6話では、演目 夏の夜の夢 の初日を迎えた劇団 “WS劇場” の熱気と、そこから漏れ出す闇とが交錯しました。主人公・久部三成(菅田将暉)は、舞台中も打ち上げの場でも、劇作家としての夢と、現実の重みのどちらにも押されています。
特に、超大物俳優・是尾礼三郎(浅野和之)が久部の舞台を褒めに訪れた場面では、「誉められた」という歓喜の瞬間が、そのまま「これから見張られている」というプレッシャーに変わっていくところが印象的でした。
それと同時に、巫女・江頭樹里(浜辺美波)やダンサー・倖田リカ(二階堂ふみ)など、周囲の登場人物たちの視線や距離感が、舞台の外で芳しくもない変化を見せ始めています。

良かったこと

光と影、舞台と楽屋の対比が鮮やか

劇の初日という“華やかな場面”と、打ち上げや控室の“ざわめき”が交互に描かれ、視聴者として「舞台上の輝きだけでは語れない物語」がそこにあると感じました。
たとえば、久部が是尾に連れて行かれた打ち上げの場面。そこでは笑顔と祝杯がある一方で、樹里の気配とリカの視線が重なり合い、「祝福の場」ではなく「観察の場」になっているような気配が漂いました。
この“舞台の華”と“楽屋の内面”のコントラストが、とても巧みに演出されていたと思います。

キャラクターたちの“見られ方/見たい”との揺れがリアル

久部は台本・演出・舞台経験すべてにかけており、是尾からの一言も純粋に嬉しいはずなのに、そこに“次”を期待される自覚が伴ってしまう。
一方で樹里は、久部に対して「あなたの世界を見てきた」という風に振る舞い、リカは“舞台を通して”久部を見直している。
この「誰が誰をどう見ているのか」「誰にどう見られていたいのか」という視線の揺れが、ドラマ的にとても効いていました。

気になった・もう少しほしかった部分

劇団内部の背景説明がやや浅めに感じられた

劇団 “WS” の経営困難・劇場存続の危機・久部の苦悩など、幾つものテーマが同時進行しましたが、今回はそのうち“久部とリカ・樹里”という三角関係的な人間ドラマに焦点が寄っており、劇団全体の動きや背景(収入構造、観客動員、劇場の立地など)が少し影に隠れてしまった印象があります。
そのため、観ていて「この劇団本当に存続できるのか?」というリアリティがもうひと押しあると、さらに深く入り込めたのではないかと思います。

演出/舞台そのものの“軌道修正”が少し唐突に感じた

是尾との出会いや打ち上げシーンの流れが自然ではありましたが、久部がその瞬間に「この舞台をもっとうまくやらなければ」という覚悟を改めて抱く流れがやや駆け足だった気がします。
初日を終えてからの“修正”や“次なる稽古”に向けた動きが、もう少し丁寧に映されていれば、次回への期待値がさらに高まったと思います。

感想まとめ

第6話は「舞台」をきっかけに、「楽屋=居場所・裏側・内面」がどれだけ揺れ動くものかを見せつける回でした。久部のように夢を追う者にとって、“誉め言葉”は祝福であると同時に“監視”でもある。是尾の一言がその象徴だったと感じます。
また、樹里とリカという近くて遠い女性たちの視線と、久部の視線が交錯する中で、「舞台」に立つということが「見られること」でもあるという重さを改めて感じさせられました。
このドラマが「演劇もの」であると同時に、「青春もの」「挫折もの」でもあるとすれば、第6話はその三位一体を強く印象づける回だったと思います。

今後への期待と考察

次回以降に注目したいのは、是尾という“先輩俳優”的存在”が劇団にどう関わっていくか、そして久部・リカ・樹里それぞれの関係性がどの方向に進むのかです。
特に、「劇団本体」「劇場」「観客」の三点がこの先どう揺れ動くかが鍵だと思います。
私としては、「楽屋」が物理的な場所ではなく“誰かと共有する時間”なのだとすれば、次回、久部たちがその“時間”をどう取り戻すか、どう守るかに注目したいです。

このドラマは、“舞台上”だけではなく、“舞台裏”の物語を描いているからこそ、観る者に深く響きます。第6話は、その“裏側”が少しずつ姿を見せ始めた、非常に示唆に富んだ回でした。
(あいちゃん)

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